ボラみみのホームへ戻り
心の痛みを話し合うことで、少しでも和らげられます。

−「がんの子供を守る会」東海支部代表幹事、鈴木中人さんの活動−

未来に伝えたい、 亡き娘の「命のメッセージ」


 全国で2万4千人の子どもたちが闘っている「小児がん」。今や治る割合は全体の6〜7割ともいわれ、不治の病のイメージは薄れつつある。しかしもちろん、依然として奪われていく幼い命があるのも確かだ。そこで、少し想像してほしい。自分の子どもが小児がんで助からないと宣告されたら、あなたは最初に何を思うだろうか。豊田市在住の会社員、鈴木中人さんは3歳の娘が小児がんで治る可能性は15%と宣告された時、まず言葉を失ったという。その後2年11カ月の闘病生活、そして永遠の別れがあった。言葉をなくしたあの日から10年、鈴木さんは今、小児がんの子どもや家族を支援する「がんの子供を守る会東海支部」の代表幹事として、子を亡くした一人の父親として、色々な場で「命のメッセージ」を発信している。
 

子どもを亡くした家族に語り合える場を
 

 2002年、師走のとある土曜日。名古屋市内にある「ウィルあいち」のセミナールームには、「がんの子供を守る会東海支部」(以下東海支部)主催の「小児がんで子供を亡くされた家族の集い」に参加する約30名の家族が集っていた。新聞での事前報道や医療者からの紹介もあり、その数の多さに企画した東海支部代表幹事の鈴木さんは、「こんなにたくさんの人がみえるなんて」と、新鮮な驚きを覚えた。
 車座になって向い合う家族たちは、初対面だが子どもを小児がんで亡くしたという経験を共有する仲間でもあった
講演中の鈴木さん
鈴木さんの講演に涙ぐむ人も
。家族たちは、司会進行の医師やソーシャルワーカーに導かれると、それぞれ思いの丈を告白していく。闘病中の苦しみや悲しみ、医療や周囲への怒りや嘆き、親としての後悔や喪失感。時に涙して語られる内容に、耳を傾ける家族は自分の体験やたどってきた心の軌跡をなぞる。また、子どもを亡くして数カ月の家族が現在の心境を訴えると、すでに5年、10年経った先輩家族が、自然に言葉を引き継ぐ。「子どものことを忘れることはありません。でも、少しずつ前向きになることはできますよ」、「お母さんお父さんが幸せでいることが天国の子どもさんの願いなんですよ」。先輩家族から発せられた言葉にこそ、子どもを亡くしてまだ日の浅い家族は救われる。
 初めての企画が終了した後、鈴木さんは確かな手応えを感じていた。「子どもを亡くした家族は、病院を出ると仲間はいませんし、孤立しがちです。自分もそうだったからわかります。この集いを企画して、そうした家族が、語り合える場を必要としていることを改めて実感しました」。  かねてから、闘病中の子どもや家族の支援、治癒した当事者の支援以外に、子どもを亡くした家族の支援が必要だと痛感していた鈴木さんにとって、今回の新しい支援活動は今後の展開が大いに期待できるものになった。
「闘病中はこの会の存在すら知らずに、退院後に入会する人も多いんです」。そう語る鈴木さんがこの会と出会ったのは今からちょうど10年前、最愛の娘景子ちゃんが、がんと闘っていた入院先の病院だった。

景子ちゃんが遺してくれた命の輝き

  鈴木さんの長女景子ちゃんは、1992年8月、3歳の時に神経芽細胞腫という白血病に次いで二番目に多い小児がんを発病した。治癒率15%と宣告された病気は、その後奇跡的に回復し、一年半後には保育園に通えるようにもなるが、治療終了を決定するための最終検査で、脳転移が発覚。手術の後には骨髄転移が判明し、治癒不能つまり死の宣告を受けることになった。その後小学校への入学も果たすが、3カ月後の1995年7月、景子ちゃんは天国に旅立っていった。わずか6歳5ヵ月足らずの短い一生だった。とはいえ、2年11カ月に及ぶ闘病中、景子ちゃんが鈴木さんや周囲の大人たちに遺してくれた命の輝きは、この上なく鮮明だった。
 絶望の淵をさまよう鈴木さん夫婦に「私、がんばるから。悪い虫さんをやっつける」とけなげに誓う景子ちゃん。たった3歳にして「私、死ぬの?」と自分の死を予感し、死を恐れる景子ちゃん。「お母さん、ごめんね。私が病気だから、お母さんも病院にいなくちゃいけないから」と、付き添う母親を気遣う景子ちゃん。抗がん剤の影響で髪が抜け手術の痕が残る頭のまま帽子をとって保育園のグランドを駆け回る景子ちゃん。一人で起き上がれなくなってからも「今度学校に行った時に困るでしょ」とベッドでモルヒネを飲んで小学校の宿題を続ける景子ちゃん・・・・・。
 「正直、どうしてそんなに頑張れるんだろうと思いましたね。だって、あとわずかな命だったら宿題だって無駄になるじゃないですか。でも、ある時ハッと気付いたんですよ。この子は死に向っているのではなく、生き抜こうとしているんだ。今を一生懸命生き抜こうとしてるんだって」。当時を振り返る鈴木さんはこう続ける。「もちろん、うちの子が特別だったわけじゃないと思うんです。子どもは純粋に輝く。凄惨な状況だとなおいっそうその輝きが際立つのでしょうね」。

娘のメッセージを未来へ
  この子を救えなかった――。景子ちゃんの死を前にした鈴木さんの自責の念は強く、お通夜に駆けつけてくれた入院先の病院スタッフがかけてくれた言葉にやっと救われた。「短い一生だったけど、両親の愛情に包まれて景子ちゃんは幸せでしたね」。確かに、娘は自分たち家族だけでなく、病院スタッフ、保育園や学校関係者、そして輸血に協力してくれた人たちの、多くの愛情に包まれていた。鈴木さんには、そう思えた。やがて、「今度は自分が支えよう」という使命感が鈴木さんを「がんの子供を守る会」の活動に向わせた。そして、多くの闘病中の家族に出会い、ひとつの想いをもつ。それは、夫婦で10冊の大学ノートに綴った闘病記録「景子ちゃんノート」をもとに、本を書くことだった。3年掛かりで『景子ちゃん、ありがとう』(郁朋社)を執筆、2年前に出版に漕ぎ着けた。330頁を超える本は、医療者とのやりとり、子どもの生き抜く姿、家族の想いなどが克明に書かれ、同じ体験をする家族にとってはバイブルにもなった。各メディアにも大きく取り上げられ、鈴木さんのもとには多くの反響の声が寄せられた。鈴木さんが意外だったのは、多くの医療関係者が読んでいてくれたこと、そして「患者さんの気持ち、忘れたものを思い出させてもらった」という手紙に記された医師らの率直な内省だった。「医師と患者には、立場や感じ方の違いがあります。でも、医師も一人の人間として、親として、多くの悩みや思いを抱き、必死に命を救おうとしているんですよね。それを教えてもらいました」と、鈴木さんは言う。
 出版後は、読者から依頼があると講演活動を行うようにもなった。医療関係や病気の家族を対象にしたものが多いが、最近は学校、行政、生き方を学ぶ場で話すことも増えてきた。それに合わせて、鈴木さんの想いもふくらむ。「私は、たまたま小児がんの子どもを持つ親として、命の大切さや一生懸命生きることの意味に触れました。この経験を踏まえ、これからは、いろんな場で、『一生懸命生きよう』『命を大切にしよう』というメッセージを発信できれば、と思うようになりました」。
 生き抜くことの大切さを教えてくれた景子ちゃんのメッセージは、こうして、鈴木さんのさまざまな活動を通して確実に未来へとバトンダッチされていく。

 


 
Information
 
●「がんの子供を守る会」東海支部
小児がんに関する治療研究助成事業や相談事業などの支援活動を展開する財団法人「がんの子供を守る会(のぞみ財団)」の地方支部として、全国では三番目の1975年に立ち上げられた(当時愛知支部)。チャリティコンサートや相談会、講演会など、月に一度のペースで事業を展開してきたほか当事者の会の支援などに取り組む。
ガンの子供を守る会
<連絡先>
(財)「がんの子供を守る会」 東海支部 代表幹事 鈴木 中人
TEL/FAX : 0565ー31ー4399
E-mail : 1234ab@hm2.aitai.ne.jp
URL : http://hm2.aitai.ne.jp/~1234ab/

●「がんの子供を守る会」への入会申込み・相談
〒136ー0071  東京都江東区亀戸6ー24ー4
TEL : 03ー3638ー6552 
E-mail : nozomi@ccaj-found.or.jp
URL : http://www.ccaj-found.or.jp 

              ページのトップへ

      ボラみみのホームへ戻り