2001年1月 |
名古屋市西区あし原町――。 |
戸水さん一家は西枇杷島町在住。「夜中に避難勧告が出たものの自宅待機していたのですが、決壊した後はみるみる水がやってくる。まさに命からがらで、娘の着替えと車イスだけ積み込んで、スーパーの駐車場2階へ逃げました。すぐそこまで海のような状態。自衛隊のボートが何回か来たのですが、小さくて車イスごと乗れないんですね。飲まず食わずの不自由な状態が、夕方まで12時間続きました」。
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*国の認可施設には、通所者1名につき、毎月一定額の補助金が支給されるほか、さまざまな補助制度があり、今回の災害にも復旧のための補助金が出ている。無認可施設は、認められれば一施設に年間いくらという補助金が出るが(通書写の人数には関わらない)、その他の補助制度は基本的にない。 |
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気丈な戸水さんも、さすがに何度も挫折しかける。「でも、全国から支援が届いて。共同作業所のネットワークで北海道から冷蔵庫が届いたり、阪神大震災のときにできた基金から寄付があったり。それでなんとかしなければ、と」。 |
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2台あったリフトカーは、災害の前日にたまたま職員が乗って帰宅、これが幸いした。災害後3週間で、リフトカーで職員が送迎し、交代で2人ずつから通所を開始した。第1友の家は復旧のさなかだったが、「西区や西枇杷島町に住んでいて、罹災したメンバーもいました。精神的なショックや片づけのある家族のためにも、1日も早く通所できるようにしたかった」と戸水さん。「今回の水害で、施設に通っていない在宅の障害者はどうしたんでしょう。考えると心が痛みます」。 |
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現在は、第1と第3友の家に、メンバーが通所している。創作タイムにポスターを作ったり、リラクゼーションタイムに音楽鑑賞をしたり。第2友の家が修復されていない以外は、水害前と変わりない日々戻った。 「家族といるだけでは得られないコミュニケーションをすることで、生きていく力を身につけてほしい」と戸水さん。「ひとりの人間としての尊厳をもち、自己実現していく場であること」が友の家が目指すところである。今回の水害、通所するメンバーと職員の、その意志を妨げるものではなかったようだ。全復旧までにはまだ時間がかかりそうだが、戸水さんの表情は力強く明るかった。 |
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